宗教とコミュニティ
7.17, 2018
何かに熱狂してたり、何かに陶酔、服従してる”モノゴト”と出会った時、「なんか宗教っぽいよね」
って思うことってありませんか? (上記写真は関係ありません)
僕もそう思うことがたまにあったりするんですが、果たして宗教ってネガティブワードなのか?
そんな疑問から宗教という概念に興味を持ち始めました。
「冷やし中華はじめました」くらい、季節的で軽い気持ちではありますが。
宗教とは精神的余興であるという仮説
多神教な日本なのに宗教というと、ちょっぴり「禁断な…」的に思われがちですが、そうではない気がしてます。
だって正月は神社へ初詣へ行き、葬儀ではお経を唱え、結婚式はチャペルや神社で、クリスマスはパーティ。
どうです?
もはや日本人にとって宗教は、ポップであると言っても過言ではない気がしませんか。
宗教とは人々にとって、エンタメやアートな側面もあるんではなかろうか。
今回の僕の仮説です。
今回の僕の考察が全ての宗教に当てはまるワケではありませんので、そこんとこはお間違えなく。
「WildWild Country」というNetflixのドキュメンタリー
「ワイルドワイルドカントリー」を観て感じたんですが、ここに登場する宗教も初期の段階では
安心と安全が確保された健全なコミュニティなんだなと。
ちなみにこの「ワイルドワイルドカントリー」とは、アメリカの宗教団体(カルト集団)のドキュメンタリー。
まずは「何かからの解放や自由、平和と幸せ」を掲げた教祖のところへ人が集まります。
教祖は、集まった同志たちと共に暮らすべく、田舎に土地や空き家を買っていきます。
そこで最初は先住民たちと比較的仲良く共存していきます。
信者たちは「衣食住」の確保がされると、安心と安全が確立されコミュニティは自走していきます。
ありがたや〜と、教祖の教えだけを忠実に守って生きていきます。
人を豊かにする思想であれば、どんどん信者が増えていきます。
信者の数が少ないうちは先住民もまだ脅威を覚えませんが、これがどんどん人数が増えてくると
脅威に感じていきます。
そうなると先住民は町を乗っ取られることを恐れ、妨害にでます。
共存を考えるのではなく、とりあえず排除へ向かうのです。
その先に待ち受けるのは、両者が武器を持っての争いごとです。
なぜかこの段階で当初の目的「何かからの解放や自由、平和と幸せ」は何処へ…です。
という、超おおまかな流れを記した上で、持論を繰り広げたいと思う。
実はオープンすぎるのは向いていないのかもしれない
何かからの解放や自由を求めて、、辿り着いた自由の地は、実は客観的にみたら縛られた自由。
つまりその人にとっては、その縛られた自由もしくは狭い自由というのが、本当に求める自由であり
居心地の良さに繋がっているのかもしれない。インサイト的な話です。
これは、今のインターネット的なオープンな世界の揺り戻しとしての、クローズドな世界が見直されていることと
どことなく似ている気がする。
反骨精神は争うための精神ではない
ある種反体制から生まれることが多い宗教的な概念は、はじまりが反体制ゆえに
争いごとへ発展する可能性が高いんではなかろうか。
そしていつしか争うことが目的化してしまい、 本来の目的であったはずの思想は
群れを維持するための手段となり下がってしまうのではないだろうか。
群れができると、側近とういか二番手というポジションが生まれるんですが
その二番手もまた、なぜか中間管理職的な役割や教祖の思想の普及は果たさず、自分の保身やエゴへ走りがち。
そう。
会社だったりコミュニティだったり家族だったり、実は多くのモノに当てはまってしまう側面もある
宗教的な概念の抽象化。
比べる対象は、単なる対象であったはずにも関わらず、いつしか対象から「仮想敵」へと
変わっていき、妬みや僻みになっていくのではないだろうか。
疑うことのない宗教的思想というのは、ある種哲学に対置する。
もちろんどちらがいいとか悪いとかではなく、どちらもいまだ明確に言語化された答えがない
というところに僕は面白さを感じております。
ちなみに「ワイルドワイルドカントリー」
最後は国家からの弾圧を受けます。
教祖は逮捕され、最終的には財産分与権の与えられた数名によって
殺害されたとかされてないとか。。
最後にまとめるのなら…
真実はどうであれ、多数派は信用され少数派は叩かれる。
もしもどこかに真実が存在しているのなら
そこに民主主義的な概念を当てはめる事は、僕は間違っていると思う。
本日もお付き合いいただきありがとうございました。笑
日中はめちゃめちゃ暑いので、みんないっぱい水分取ってね。
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