盛者必衰
10.16, 2013
ブログを続けるって事でとりあえずまだ自己紹介が全然足りないので引き続き自分の事を反省もふまえながら書いていこうと思います。
小学校時代。
四字熟語の問題で素直に焼肉定食って書いたり、
台風一過は家族の事だと思ってたり、
(株)月極は日本で一番大きな会社と思ってた少年だった。
ファミコンの本体は持っておらず、裏にマジックで名前を書いたカセットだけ持ってた僕は,
田舎の山を眺めながらすくすくとひねくれて育った。
父親は会社員、母親は当時小さな喫茶店「旭」を経営していて、2つ上のあんまりイケてない兄がいた。(今もいます)
マンガとプラモとフリスビーとイチジクが大好きな小学生だった。友達もたくさんいたけどクラスの人気者ってほどじゃない普通の子供。
そんな僕が小6の時にクラスの男子、いや学年の男子から注目を集める存在となる。
当時は「モノ」を持ってる子が人気があった。マンガ、ファミコン、BMX、エアガンなどなど。どれも子供では買える代物ではない。
「人気者になりたい!」そう思った僕は他の子が持ってない何かを作ろうと考えた。目を付けたのは雑誌。しかもエロ。
母が経営する喫茶「旭」には「プレイボーイ」が毎週届けられていた。古くなったプレイボーイはお店の裏にある倉庫にひと縛りにして置いてある。それをこっそり持ち出して、ふくろとじの部分を丁寧に切り取りホッチキスで止め、画用紙の表紙をつけ、マジックでタイトルを書いた、「ふくろとじ特大号」。
その冊子を学校でこっそり仲の良い友達に渡すとすごい反響を得た。
当時は小学生がグラビアだとかヌードだとかを見る事が出来る環境が少なかったから。
男子たちの手から手へ「ふくろとじ特大号」は僕の知らない子達まで旅を続け、
戻ってきたときには数ページと表紙の一部がなくなっているほどだった。
ほどなく「アレ」は誰のものか、次号はあるのか、よろしかったら頂けませんでしょうか等、
問い合わせが他クラスからも寄せられ僕は1年間「ふくろとじ特大号8」までを製作し続けた。
僕はふくろとじで人気者になったわけだ。
しかし、その後僕の後釜を狙い、学校にエロトピアだのスコラだのザ・ベストだのを直接持ち込む強者が現れ、
ふくろとじ特大号は廃刊となる。僕の人気も元に戻った。「エロ」の烙印だけを残して。
そして小学校卒業を迎えた。後に知る「盛者必衰」をこの時に学んだのだ。
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